ドグラ・マグラ

はーんです。

詰め将棋

なぜか詰将棋作家の中には「詰め将棋」という表記が許せない方が少なからず存在する。彼らは「詰め将棋」に親を殺されたのかと言わんばかりに「詰め将棋」に過敏に反応する。

こればかりは私には理解できない。一体詰め将棋と書くことがどんな不利益に繋がるというのだろうか。

心の中で思う分には勝手である。かくいう私もどちらかというと「詰将棋」の方がしっくりくる。その方が慣れ親しんだ表記だからだ。

しかし、Twitterやブログなどで直接「詰め将棋」を批判するという行為がわからない。世の中には「詰め将棋」と表記する本などいくらでも存在する。そういった本を読んで「詰め将棋って面白いな」となる人にとっては、「詰め将棋」がスタンダードなのである。

そういう人もいつかは詰パラなどを通ることで次第に「詰将棋」になっていくかもしれない。しかし、詰め将棋と書くことに対していちいち過敏に反応していては、せっかく詰将棋に興味を持ってくれそうな人にダメージを与えかねないと言いたいのだ。

 

というか、「詰め将棋」問題に限らず先例のような一部の詰将棋作家は何かと上から、しかも激しい口調で批判しがちであると思う。言っておくが、いくら詰将棋界隈の常識だとしても、それはごく一部のマニアにしか通用しないのだ。仮に気に入らないことがあれば一度相手の目線に立ってみて、それでも違うと思えばやんわりと教えてあげればそれでいい。

「詰め将棋」問題の類例として「問題」問題もある。詰将棋を「作品」でなく「問題」というとお怒りの声が飛んでくるというのだ。確かに我々の感覚では、詰将棋を「問題」というのは変かもしれない。しかし普通の将棋ファンからしたら詰将棋は所詮、棋力向上のための「問題」なのである。そういった気になる表現をされた時に、どういう対応を取るかで詰将棋に対するイメージが変わってくると私は思う。

やや趣旨からズレてしまったが、詰将棋ファンを少しでも増やしたいと思うのなら、「界隈の常識」を知らない一般人にも優しくすべきだと言いたいだけである。

 

とはいえ、中には何度言ってもわからない本当にタチの悪い人間もいるのだから、なかなか難しいものだ。